手塚治虫さんと「オオウラギンヒョウモン」…?

 「手塚治虫」…このペンネームを知らない方はおられないと思います。「オオウラギンヒョウモン」…この蝶の名前を知っておられる方はほとんどおられないと思います。もともと日本のほとんどの地域にすんでいながら、今、日本から姿を消そうとしているチョウの名前です。鳥でいえば「トキ」に近いものと考えてください。
 緑のセンターの「池田の蝶」のパンフレットを作成するときに様々な文献を調べました。オオウラギンヒョウモンは、兵庫県川西市では、一の鳥居が有名な産地でした。池田市周辺にある高校の生物クラブ等の古い同好誌を調べてみると、箕面・吹田・高槻等近隣の地域では生息していたことが分かりました。池田市にはかつて池田市立池田小学校の北側の斜面に牧場があったほどですから環境から考えると生息していなかったはずがありません。オオウラギンヒョウモンの幼虫が食べるマスミレは、私が小学生のころは池田市室町でも花を咲かせていました。しかし、今だにオオウラギンヒョウモンの記録を見つけることができていません。

 その時、ふと気にかかった写真がありました。「緑蝶」という冊子に載っていたものです。

 「1942.7.9」(文字がはっきりしいてない部分があり1943年の可能性もあります)「TAKARAZUKA」「O.TEZUKA」のラベルのついたオオウラギンヒョウモンの標本です。所有者はH.T.さん…手塚治虫さんの弟です。

 以前、テレビのドラマでも紹介されたように、手塚治虫さんは少年期を現在の宝塚市御殿場ですごされました。現在、宝塚の動物園(今はありません)や大劇場の近くに「宝塚市立手塚治虫記念館」があるのもそのためです。

 

 

 そして、池田市の大阪府池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)に通っておられました。その当時から校区は広く池田市以外の地域から通っておられた方が多かったようです。しかし、その当時、同じ学校に通われていた方が今も何人か池田に住んでおられます。

 栄本町にお住まいのyam.さん(画家)は、手塚さんとは2学年上でした。6年生の時に絵が張り出されました。手塚治虫さんは、4年生でした。歴史の中の有名な人物画がテーマでした。多くの女の子は、紫式部を題材にしていました。しかし、yam.さんは清少納言を描かれました。十二単(ひとえ)の複雑さよりもすっきりとした清少納言を選ばれたそうです。
 絵が張り出されて見ている時に、ある子どもが、
「手塚という子が、yam.さんはどんな人やろと言っていた。」
と、伝えたそうです。
「どんな子や。」
と聞くと、
「あいつや、あいつや。」
とのことなので、本人に、
「何か用事。」
と、yam.さんがたずねられたそうです。するとその子は、
「あっ、ちがいます。ちがいます。」
とだけ言って去ってしまったそうです。その当時珍しかった丸い眼鏡が印象に残ったそうです。子どものころ、「いじめられっ子」だったという「手塚治虫記念館」にもあった話と重なるような気もしました。
 手塚治虫さんが小学校4年生のころといえば、すでに素晴しい作品を残し始めていたころです。yam.さんの絵に何かを感じたのでしょう。
 このころの附属池田小学校では、夏休みの自由研究で昆虫採集をするのはごくあたり前だったそうです。女の子も展翅板を使って立派な標本を作っていたそうです。夏休み明けには、2箱もの標本を持ってくる子もいたそうです。生き物には関係ないのですが、時には缶詰のラベル集めやマッチ箱集めがテーマになることもあったそうです。その当時では、すぐれたデザインを見る目を養うのに意義があったことでしよう。もちろん工作は、手作りでした。かまぼこ板を使って船を作ったりもしたそうです。yam.さんの言葉を借りると、附属で学んだことはほんとうに『自然』だったそうです。道具がなくても、道端にすわっていろいろな石を見て遊ぶことができたそうです。
 そのような中で手塚治虫さんは育ちました。本格的に昆虫少年になったのは5年生のころと言われています。ペンネームの「手塚治虫」もこのころ使い始められたそうです。そのころの、子どもが描いたとは思えないスケッチなどは一般の本にも紹介されています。